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伊達泰宗氏が騎馬で率いる時代絵巻巡行
- 2016/4/28
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–心を込めて、粛々と出陣式に向かいます–
仙台・青葉まつり2日目「本まつり」の一番の見どころは、なんといっても壮大な時代絵巻パレード「時代絵巻巡行」だ。
その先陣を切るのは、伊達家18代ご当主である伊達泰宗さん。伊達家のご当主が政宗公の甲冑を纏い騎乗姿で勇ましく歩み、その後を伊達家臣団、そして慶長遣欧使節団、岩出山・白石・五葉山火縄銃鉄砲隊が続く。その姿は、なんとも厳かかつ勇壮で、仙台の初夏には欠かせない風物詩となっている。
「本まつりの当日は、瑞鳳殿の涅槃門前で五葉山鉄砲隊のみなさんと出陣式を行います。62段の参道を、甲冑をつけて登りますので、なかなか大変です。みなさんは、日々鍛錬を怠らない方ばかりですので、一糸乱れず登って行かれます。私も心を込めて粛々と出陣式に臨んでおります」と、泰宗さん。聞けば、身に着ける甲冑は25㎏ほどにもなるそうだが、「伊達家の甲冑は鉄砲に強い鉄板で作られた具足で、当時は最先端で最も丈夫で軽かったのです。25㎏で軽かったわけですから、それ以前の武将たちは大変だったと思いますね。私が身に着ける具足は、私の体形に合わせて作っていただいたものですので、私も体形をずっと維持していかないといけませんね」といって、静かに笑う。
–当主として市民のみなさまとお祭りに参加できるのは、とてもありがたいこと–
仙台・青葉まつりは、その起源を仙台藩最大の祭りである「仙台祭」にまで遡るが、昭和40年代に交通事情などから途絶えてしまった。市民が復活させ、今の「仙台・青葉まつり」となったのは、昭和60年(1985)のこと。泰宗さんは、伊達家当主として第1回目から参加しているという。「以前は束帯をつけて馬に乗ったり、人力車に乗ってパレードしたこともありましたが、やはりみなさん甲冑をつけて馬に乗るのが一番いいと言ってくださいます。私は、政宗公の御霊を乗せた御神輿をお守りする武者隊の先頭をお守りしているわけですが、とてもありがたいことだと思っております。と申しますのも、昨年『加賀百万石まつり』を拝見したのですが、役者さんが利家公とおまつさまを演じていらっしゃったんです。それを考えると、こうして微力ながら当主としてお手伝いさせていただき、藩志会や市民のみなさまと一緒にお祭りに参加できるというのは、本当にありがたいことだと感じております」。
–歴史から謙虚に学び、未来ある仙台を–
歴史を遡ること江戸時代末期。仙台藩は、戊辰戦争に敗れ、62万石から28万石へ減封の沙汰を受ける。これによって、北海道開拓移住が始まったのは、多くの人が知るところだ。そして、伊達家当主も、この時から江戸屋敷での居住を命じられ、故郷仙台に住まうことは許されなくなった。それから、いくつもの時代が過ぎ、平成となった今、泰宗さんは明治以降で初めて、この土地で暮らす伊達家当主となった。
「私は、昭和49年(1974)の瑞鳳殿発掘調査の際に仙台に参りました。その際に、政宗公に『大人になったら、おそばにお仕えします』と約束したのです。なにより、伊達家を支えてくださった方々があるからこそ、今こうして存在することができています。少しでも、地元のみなさまに恩返しができたら…という思いで、日々過ごしております」。
ところで、藩祖である政宗公と泰宗さんには、ともに大きな災害を経験したという共通点がある。政宗公は、慶長の大地震・大津波。そして泰宗さんはあの東日本大震災だ。「私は、毎年、仙台開府日である12月24日に仙台城址に上って日の出を拝むのですが、震災のあった年の仙台城址からの眺めには、言葉が出ませんでした。海岸線の松は数えるほどになり、がれきが山積みで、沿岸の町が赤茶色に見えました。政宗公も、慶長の大津波の後で、城下の景色を眺め、きっと心を痛めたことでしょう。そして、政宗公は沿岸部を人が住まないよう農耕地にし、田畑を潮風から守るために海岸沿いに松を植えました。そして、田畑に水が行き渡るように貞山堀を作られた。未来を見据えた復興を成し遂げたのです。歴史から謙虚に学びつつ、私も復興のお役に立てればと思っています」。
穏やかに、そして凛としたたたずまいで、言葉を選ぶようにお話になる泰宗さん。そのひとつひとつの言葉には、“仙台愛”があふれていた。
伊達泰宗氏
伊達政宗公から数えて十八代目の伊達家当主、伊達氏34世。
伊達家伯記念會会長、(公財)瑞鳳殿名誉資料館長、(公財)東北放送文化事業団理事、(社)伊達家鳳文会総裁、(学)聖ウルスラ学院名誉顧問、仙台商工会議所顧問、仙台藩志会総裁
※名前の「泰」は正しくは旧字になりますが、本ホームページでは当用漢字を使用しています。